桜丘法律事務所誕生話
桜丘法律事務所はこの1月で設立満25年を迎えました。そこでこの機に当事務所がどのように設立されたかを振り返りつつご紹介したいと思います。
悲願と言われた被疑者国選弁護制度
今ではあるのが当たり前の被疑者国選弁護制度ですが、その歴史は浅く、長期3年を超える刑の罪で勾留された被疑者を対象に実施されたのが2006年(平成18年)、交流された全被疑者にまで対象が広げられたのは2018年6月、わずか5年足らず前のことです。
それまで多くの被疑者には弁護人が付きませんでした。もちろん、私選弁護人の選任はできますが、私選弁護人を付けられる被疑者はごく少数でした。弁護人が付かぬ被疑者段階で強要された自白が証拠とされて起こる冤罪事件が後を絶ちませんでした。日弁連は被疑者国選制度が必要だと訴えていましたが、ネックになっていたのが司法過疎地の存在でした。
1か月先の期日の調整をすれば良い被告人の弁護と違い、被疑者国選は勾留決定がなされたら直ちに出動しなければなりません。しかし、例えば旭川地裁管内では当時稚内支部にも紋別支部にも弁護士はいませんでした。それぞれ本庁からの距離はおよそ240km、150kmです。新幹線も高速道路もない中で本庁から直ちに駆けつけるのは不可能です。司法過疎地の存在が被疑者国選実現のブレーキになっていたのです。
パブリックディフェンダー
戦後、日本の刑事訴訟法が範としたのはアメリカの司法制度でしたが、日本の刑事司法が新しい刑事訴訟法の理念をきちんと実現できたかは甚だ疑問です。他方アメリカの刑事司法は戦後も著しい進化を遂げました。1966年のミランダ判決は、全ての被疑者に弁護人選任権があること、金銭的に余裕がなくても国選(公選)弁護人を付けてもらえること、そのことを逮捕時に告知しなければならないことを宣言しました。
かつては米国でも国選弁護人は能力が低くやる気のない弁護士の代名詞のように言われていました。しかしミランダ判決以降国公選弁護人の質は徐々に上がって行ったようです。1990年代には優れたパブリックディフェンダー(公設弁護人)が公的弁護を担い、高い実績をあげるようになっていました。
桜丘法律事務所創設者の櫻井弁護士は、司法過疎を解消して被疑者国選弁護制度を実現するためにはパブリックディフェンダーオフィス(公設弁護人事務所)のような事務所を司法過疎地に置くことだと考えました。
とはいえ日本の国や自治体が積極的に弁護人を配置したりその予算を確保するとは考えられません。これは日弁連が取り組むべき課題だと考えました。
日本型公設弁護人構想
1990年代半ばには、司法過疎の解消が必要であることが、日弁連内の共通の認識になっていました。しかし他方、そうは言ってもそこに事務所を構える弁護士はいないだろうと考えられていました。そこで当時の日弁連は、司法過疎地に法律相談所を設置するという方針を掲げました。しかし法律相談所を設置しただけでは被疑者国選に対応できません。そこに「弁護士がいる」ことが重要なのです。
司法過疎は弁護士人口の自然増に任せていては解消しないと考えた櫻井は、新人弁護士を育成して過疎地の事務所に派遣するという仕組みを考え、日本型公設弁護人事務所構想として日弁連が取り組むべきだと提案しました。その上で、実現の可否についての議論に長時間を費やするのを嫌った櫻井は、自身でパイロット事務所を作ることを宣言し、1998年1月19日、桜丘法律事務所を設立しました。
神山啓史弁護士
司法過疎の問題は民事刑事を問いませんが、被疑者国選弁護の実現を目指す櫻井弁護士にとって解決しなければならない課題は過疎地で多くの国選事件を担い、且つ質の高い弁護活動を行う弁護士の育成でした。戦後アメリカと同レベルの武器(刑事訴訟法)を与えられながら、その後、我が国の刑事司法がその質において大きく後れを取ってしまったのは、裁判官の怠慢だけでなく、弁護人の怠惰によるところも大きいと考えていた櫻井は、最良の教育担当として親友の神山弁護士に助力を頼みました。当時既に刑事弁護の実力者として名を知られ、東京電力OL殺人事件(以下「東電事件」)の第1審の主任弁護人を務めていた神山弁護士は、「(東電事件の)現場に近くて丁度ええ。櫻井さんが本気ならわし手伝うで」と二つ返事でと引き受けてくれました。
東電事件
因みに東電事件は2000年4月に無罪判決が言い渡されたものの、検察官控訴により同年12月には控訴審で逆転有罪、2003年10月に上告棄却の決定により被告人ゴビンダさんの有罪が確定しました。弁護団は2005年に再審請求を行い、7年後の2012年にようやく再審開始決定がなされ、2012年11月、最新無罪判決が言い渡され、検察官の上訴権放棄によって確定しました。
逆転有罪判決が言い渡されてから再審無罪までの12年間、神山弁護士は「間違っているのは裁判所の方だ。ゴビンダさんに接見に行くたびに、いつ出られますかと聞かれるのが本当に辛い。」と言っていました。そして、若手の弁護士や司法修習生に対しては、「君たちは受験中に最高裁の判断は常に正しいものとして判例を勉強してきたかもしれない。しかし最高裁の判断が常に正しいわけではない。僕は、この事件では最高裁が間違っている、正しいのは僕の方だと思っている。」と語っていました。
以上が桜丘法律事務所の誕生話です。その後の歩みについては機会があればまたご紹介します。
« 76期弁護士採用について | トップページ | 2月の神山ゼミ »
コメント