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2017年5月

2017年5月21日 (日)

象徴天皇制について考えました

象徴天皇制について考えたこと

 

 

 

先日,天皇の退位について,有識者会議の議論が一代限りの退位とする方向で進んでいたことに,天皇が不満を漏らされていた旨の報道があった。宮中祭祀だけを続ければ退位する必要はないとの主張がなされたことについてもショックを受けていたとのことだ。

 

 

 

天皇が,政府が進める方向性について異なる意思を表明することが極めて異例であることから,そのこと自体の当否や,内容の適否について様々な意見が見られるようだが,論者の立ち位置が異なるために噛み合わぬことも多いように見受けられる。そこで,現憲法下における象徴天皇制を是とする立場で私の意見を述べてみたい。

 

なお,私はかつては,象徴と言えども天皇制は民主制と相容れないのではないかと考えていたが,最近は民主制のグラデーションの中で,十分にあり得る制度だと考えている。その思いは,近年天皇が国民に熟慮を促す機能を果たしている様子を見て一層強くなっている。

 

 

 

それでは,象徴としての天皇とはいかなる存在であろうか。

 

憲法第1条は,「天皇は,日本国の象徴であり,国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。」とされる。象徴天皇は,日本国憲法で改めてその地位が定められた存在である。これに対して帝国憲法の第1条は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す(原文カタカナ)」と定め,憲法以前に天皇の支配があり,憲法はそれを確認したに過ぎない。こうした対比からは,象徴天皇は,日本国憲法が定める理念,理想に沿って行動することをもって日本国および国民統合の象徴であるべき責務を負うものであることが理解できる。

 

そうしたときに,天皇のあるべき言動を考えれば,可能な限り個の尊厳が尊重されるべきであるし,その生活も自由で民主的なものであることが望ましい。そう考えると,ご自身が退位したい,できれば後に続く者のためにも退位を制度化してほしいという希望は至極健全なものであると思う。勿論,世襲という制約は憲法上厳然と存在するし,権能の限界や国事行為についても憲法で定められているものであるから,これをないがしろにはできない。その点では一般の国民とは異なる特殊な地位である。だからこそ,世襲も権能・国事行為にも影響を与えず,且つ個としての天皇の意思を尊重する手段として退位を言い出されたのであろう。天皇は特殊な存在ではあるけれど,個としての尊厳や幸福追求の権利までも奪われるべきではない。むしろ個としての尊厳に満ち,家庭においても幸福に過ごすことこそが,基本的人権の尊重を憲法に謳う日本国の象徴にふさわしいと思う。天皇の地位が特別なものであることを理由に非人間的な苦痛を押し付けることを意に介さないのは誤りだというべきだ。

 

 

 

有識者会議の議論を不満に思うことは構わぬが,それを表明することが,「国政に関する権能を有しない」とされる天皇としては不適切だとの批判もあるようだが,私は,これは当たらないと考えている。皇室典範は,専ら皇室の内部の諸事を定める法律であり,その内容は国民の支配,統治に関するものではない。勿論法律であるから広義には国政に関する事柄と言えなくはないかもしれないが,その内容が国民の権利義務にかかわらぬものであり,他方天皇にとってはその私生活を左右するものであれば,これに対して意見,感想を表明することまでを,国政に関する権能を理由に不適切だと批判するのは不適当だと思う。

 

 

 

以上から私は,天皇が上述のような感想を,宮内庁を通して首相官邸に伝えたことに問題はないと考えるし,退位の問題については,制度の直接の当事者である天皇の意向はより尊重されるべきであったと考えるものである。(櫻井光政)

 

2017年5月19日 (金)

桜丘釣り同好会

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桜丘法律事務所釣り同好会の活動報告です。

先日の企画は、GWの2日間かけて行われた、勝どきマリーナ主催のフィッシング講習でした。

1日目は釣りのプロによる講習でじっくり座学を行い、2日目は実際にボートで海に出て学んだ知識を実践に活かします。

参加メンバーは、櫻井、大窪、神山(昌)、馬場(新人)の4名。

4名のうち釣り経験者は櫻井のみで、他3名はほぼ初心者。

普段は頼もしい権利の守り手たちも、釣竿を目の前にてんやわんやの様子。

1日目は釣りのプロから優しい手ほどきを受け、全員何とか釣り具の役割や魚たちの生態について理解することができました。

2日目は本番。メンバー達は目当てのシーバスを釣り上げに東京湾へと繰り出します。

波にもまれ、川崎港付近まで来たところで、ポイントを探し、実践編がスタートしました。

ルアーが消波ブロックに引っかかったり、釣り糸が切れたりと、トラブルに見舞われながらも、メンバーたちは竿を振ります。

開始から1時間ほど経ったころ、新人の馬場が50センチほどもあろうかというシーバス(スズキ)を釣り上げました。

桜丘では、普段の仕事はもちろん、同好会においても教育を欠かしません。

釣り2回目の新人が成果を出すことができたのも、日ごろの教育の賜物といえるでしょう。

GWもとうに終わり、忙しい日々に戻りました。

次は仕事で大きな成果を上げるべく、日々汗を流します。

(馬場)

2017年5月11日 (木)

【裁判例の紹介】相続に関する弁護士の助言につき弁護士に説明義務違反があったとする事例

 当事務所では定期的に所内弁護士による勉強会を行っており、先日その勉強会の中で弁護士が説明義務違反とされた事件の裁判例をピックアップしました。この裁判例(平成28年8月24日東京地裁判決 判例タイムズ1433号211頁)のでは、弁護士の助言により被相続人名義の不動産の贈与原因の登記をした相続人が単純承認したとみなされたことについて弁護士に説明義務違反を認められており、原告が請求した損害賠償請求については全額認められています。
 この裁判例についてツイッターで呟いたところ反響がそれなりにありましたので、事務所のブログの方でも取り上げることに致しました。
 裁判例における事実関係は次の通りです。
(1)父親Aと母親Bの間には子供として長女Cと次女X(訴訟の原告)がいた。また長女CにはDという子どもがいた。
(2)Aは数千万円の借金があり債務超過の状態にあったが、自宅の土地建物についてDに対して贈与する内容の契約書を作っていた(ただし生前に登記手続までは行われていなかった)。
(3)弁護士YはCの代理人として相続放棄手続をとった。
(4)弁護士YはAとDを代理してAからDの贈与による所有権移転登記手続を行った。
(5)弁護士YはXとBの代理人として相続放棄の手続を行った。
(6)Aの債権者がXとBに対して支払を求める訴訟を行った。Aの債権者はXとBの行った相続放棄について、放棄を行う前に行った所有権移転登記手続が相続財産の処分にあたり相続を承認したことになるから、相続放棄は無効であるとの主張を行った。裁判所はこの主張を認め、XとBは敗訴し支払義務を負うことになった。
 
 Xは弁護士Yに対し、相続放棄より先に所有権移転登記を行うと相続放棄が無効になるおそれがあると説明する義務があるにもかかわらずこれを怠ったとして、説明義務違反による損害賠償請求訴訟を起こしました。
 弁護士YはXの主張に対し、相続放棄の前に所有権移転登記をした場合相続放棄が無効とされてしまう可能性は半々程度であるが、相続放棄を先行させるよりは不動産を守る可能性が高いこと、仮に相続放棄が無効でも破産をするなどの方法があること等説明は行っているので、説明義務違反はないという反論を行いました。
 
 裁判所は弁護士Yの主張に関し、上記の程度の説明は行ったことについては認定しました。しかしながら、所有権移転登記手続を行うことにより相続放棄が無効と判断される可能性は相当高く、相続放棄が無効とされる可能性が半々程度と考えたこと自体見通しを誤ったものなので、その見通しの上で行った説明も不十分であるとしました。また、相続放棄が無効となった場合多額の債務の支払いを求められて自己破産まで余儀なくされるような危険を現実性のあるものとして説明せず、かりにそのような説明があったら通常相続放棄を選択したはずであると指摘しました。
 その上で弁護士Yに説明義務違反があるとして、Xに対して損害賠償責任を負うとしています。
 
 弁護士による説明義務違反については過ちを犯さないよう自戒しなければいけないところです。
 Xは弁護士Yに対して「Y先生に相続手続きをお願いした当初は、こんなにも大変なことになると思っていませんでした」「1日考えましたが、やはり自己破産には抵抗があります。先生もご指摘されたように、私は何の利益も受けていませんし・・・敗訴にならないように、御力を貸してください」と記載されたメールを送っています。自己破産という重大なリスクを甘受するという人はまずいませんので、Xがメールに書いてあるようなことを考えるのは当然のことだと思いました。
 またXは訴えられた債権者以外の関係でも相続により債務を負っており、そのことについて弁護士Yに問い合わせたところ、弁護士Yからは時効待ちを行うのが賢明であるとのメールが送られてきています。ただ借金について時効待ちという説明で納得できる人は殆どいないのではないでしょうか。その間に訴えられればさらに多額の遅延損害金のついた債務名義が増えてしまい、ますます苦しい状況に追いやられてしまいます。
 依頼者が負うリスクについて軽く考えることなく、その上で適切な説明を行うべきであることを改めて考えさせてくれる裁判例でした。                    
                                            (弁護士大窪和久)

2017年5月 3日 (水)

憲法記念日に思うこと

憲法記念日に思うこと

 

 日本国憲法が施行されて満70年を迎えた。基本的人権の尊重を軸に国民主権と平和主義を高らかに謳うわが憲法は,今なおわが国が進むべき道を示し続けていると思う。

 またそれだけに,安易で粗野な憲法改正の議論には反対である。未来永劫いかなる改正にも反対と言っているわけではない。しかし今日の改正議論は,与党の改正憲法草案などを見てもわかるとおり,安易で粗野だと言いたい。

 

 改正の根拠の1つに「押しつけ」憲法論がある。しかし「押しつけ」論には無理がある。私がそう考える最大の論拠は,「押し付けられた」とされる際の,すなわち昭和21年2月13日外務大臣官邸でのホイットニーGHQ民生局長と松本丞治国務大臣,吉田茂外務大臣の会談でホイットニーが述べた「脅し文句」の内容だ。その「脅し文句」は,「日本国政府が政府案に拘泥するならマッカーサーはマッカーサー草案か政府案かを国民に選択させるつもりだ」というものであった。

原文は次の通り。誤読を避けるためにフレーズ全部を紹介する。

General MacArthur feels that this is the last opportunity for the conservative group, considered by many to be reactionary, to remain in power; that this can only be done by a sharp swing to the left; and that if you accept this Constitution you can be sure that the Supreme Commander will support your position. 

I cannot emphasize too strongly that the acceptance of the draft Constitution is your only hope of survival, and that the Supreme Commander is determined that the people of Japan shall be free to choose between this Constitution and any form of Constitution which does not embody these principles.

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/077/077tx.html

 この件についてはいつも言うのだが,「直接国民に選ばせるぞ」と言われて「脅された」と感じるのは当の国民ではない。時の政府が,自身が作成した政府案の方が国民の支持を得られると考えたなら,「望むところだ」と答えればいい。そうしなかったのは,政府自身が,国民はマッカーサー草案を支持するに違いないと考えていたからであろう。そんなことになったらとんだ恥さらし,国民の支持も失うだろう。だから,マッカーサーはホイットニーを通じて,この草案受諾を「last opportunity for the conservative group」といい,「if you accept this Constitution you can be sure that the Supreme Commander will support your position.」言っているのである。

 

 押し付けられた者がいるとしたら,「the conservative group(保守派)」であろうが,「Supreme Commander will support your position.」と地位を保証してもらっておきながら後になって「押し付けられた」などと言い出すのは,私から見ればむしろ卑怯な態度だ。

 そもそもわずか1年前に,若者たちに「国のために死ね」と言っていた者たちの中に1人でも,命を賭してマッカーサー草案に反対した者がいたか。そのような主張をしてGHQと断固闘って投獄されたり獄死したりした者がいたか。

 私は半世紀以上も経って,証人のほとんどが息絶えてから,「抵抗できなかった」「押し付けられた」などと言い出す者を,到底信じることができない。

 

 別の根拠に,70年も変わらないのでは時代にそぐわなくなっているだろう,というものがある。しかし私たちは部屋の模様替えをするわけではない。問題にすべきはその理念を変更したり何かを加えたりする必要があるか,ということである。私は,今のところその必要はないと考えている。なぜならわが憲法の基本原理である基本的人権の尊重が,理念のレベルで未だに国民に根付いていないと思うからだ。

 

 改正論者の中にしばしばみられる議論に,憲法のせいで権利ばかり主張する者が増えてきた,というものがある。どうも,自分勝手な人々やわがままな消費者が生まれたのは憲法のせいだと言わんばかりである。けれども,法律を真面目に学んだ者の中では自明のことだが,人権は,基本的には国家や公権力類似のものに対する権利であるし,それゆえに他者の人権を侵さぬ限り最大限尊重されるべきものである。人権について正しく理解していれば,自身の人権を主張するがゆえに他者の人権をないがしろにしていいという考えには至らないはずなのであって,むしろ「行き過ぎた人権意識」などと言う者の方が人権について正しい理解をしていないのではないかと思われる。人権とは,ものすごく大雑把に言えば,国や公的機関から個人の自由を脅かされないことと,人にふさわしい最低限の生活を営むことが可能な援助を国や公的機関から受けることができることからなる。単なる自分勝手やわがままと基本的人権に由来する権利主張とは明確に異なるのである。

 また,10年ほど前にベストセラーになった,数学者が書いた新書に,「憲法には人は平等だと書かれているが,実際には不平等ではないか」という趣旨で憲法を批判している部分があり,呆れたことがあった。現実に不平等が存するからこそ,人の価値は本質において平等なのだと宣言する必要があるのだ。そして,その尊厳において平等に扱われるべきことが謳われているのだ。それをわからぬ者が大勢いるうちは,まだまだ憲法の理念が十分に国民に共有されているとは言えないと思う。

 

 そういうわけで,残念ながら,国民も政府も,未だ憲法が要求するレベルの人権感覚を身に着けるに至っていないというのが私の今の認識だ。憲法を改正するなど,まだ何十年も早い,というのが今の私が思うことだ。
                               (櫻井光政)

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