「風立ちぬ」を観てきた
ありふれた人物のありふれた日常を描いただけでは人の心は動かない。それは私たちが毎日実際に経験していることだからだ。だから,娯楽としての映画は非日常を体験する場なのだ。もし日常を描くのであれば,日常の単調な積み重ねの中にある,見落としがちだけど重要な何か,を描くのでなければわざわざ見る価値がない。
「風立ちぬ」を観た。期待はしていなかったが様々な論評が飛び交っていたので私も参加したくなったからだ。私が観た渋谷の映画館はほぼ満席の状態だった。
けれど,あまり面白くなかったし,多くの人の評価が低いのも理解できた。
それは,「ありふれた人物のありふれた日常」しか描かれていない映画だったからだ。こう書くと,「あの時代の,稀代の設計家の,恋愛の話」がどうしてありふれているのかと叱られそうであるが,私がありふれていると断じる理由はこうだ。
「あの時代」は今から見れば異常な時代であったが,その異常さは,当時の人には既に日常になっていた。的外れな取締りをする特高から身を隠すのも,ありがちな厄災に過ぎない。さらに言えば,今の時代の喧騒も,どこかあの時代に似ていなくもない。
「恋愛の話」も,伴侶を病で失うことは珍しいことではない。夫婦の思いの強さが描かれれば違って来ようが,そういうものも描かれていない。内心は深く愛し合っているのだ,と言われるかもしれないが,病気の配偶者をろくに見舞もできずに仕事に追われているのは私たちの日常そのものだ。身につまされることはあるが,それ以上のものではない。
そして最も重要なのは,「稀代の設計家」が描かれていないことだ。もちろん,秀才で,鳴り物入りで三菱に入社し,社内でも自他ともに認める優秀な人材であるという程度の紹介はされるが,その程度だ。凄さが語られない。設計上の課題をどのように解決して行ったかが語られることもない。沈頭鋲のエピソードだけでは不十分だろう。様々な要求の中で妥協を強いられたことがさらりと描かれる。それでもその解決の手腕が示されるでもない。
より人間的な,喜びや苦悩についても同様だ。例えば技術的妥協の優先順位の選択に葛藤はなかったのか。当たり前のことを当たり前に処理するように淡々と設計されたのか。違うだろう。と思ってしまうのだ。また,名機と呼ばれたゼロ戦も,軽量化するために装備は薄く,被弾すればたちまち火を噴くので米軍パイロットからはゼロライターと呼ばれた。大戦後期のゼロ戦は最早グラマンの格好の餌食ですらあった。けれど,喜びも苦悩も語られることはない。
実在の堀越二郎氏がどのような人だったのかは知らない。けれどその人を主人公にする映画を作るなら,主人公に相応しい造形は必要だったのではないか。ある程度は観客の感情移入を許す人物像を描く必要があったのではないか。不特定の大衆を観客として想定するならそうであるべきだったのではないかと思う。
そう考えると,この映画は不特定の大衆を相手に作られたものではないということがわかる。結局,堀越二郎という人について既に一定の知識を持っている,機械好きの男の子(ジェンダー御免)が,GIジョーの人形で遊ぶみたいに堀越を主人公にして物語を作って遊んでみた,という映画なのだ。誰が見ても面白いというものでないのはその故だと思う。
(櫻井光政)
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