2019年8月13日 (火)

死刑執行に抗議する

8月2日,2名の死刑囚に対する死刑が執行されました。私(櫻井)は,死刑は非人道的な刑罰であり,速やかに廃止されるべきだと考えています。欧州諸国では既に廃止されている死刑を維持する必要性は全くありません。存置の根拠に,よく遺族感情が持ち出されますが,先般判決があった,公道レースのような走行で赤信号を無視し,青信号に従って交差点に入ってきた自動車に乗っていた4人を死なせたような危険運転の事故でも法定刑の上限は有期刑です。この場合は遺族の処罰感情がいくら強くても死刑ということにはなりません。法の目的が遺族感情の満足だけでないことの表れです。そうであれば,死刑の根拠を遺族感情に求める,もっと言えば,遺族感情のせいにするのは間違いだと思います。政府は,日本人としての誇りを持てるようにしたいと考えるなら,真っ先に死刑を廃止すべきだと考えます。

以下は死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90の抗議声明を,許可を得て転載します。(櫻井)

 

抗 議 声 明

 本日(8月2日)の庄子幸一さん(64歳・東京拘置所)、鈴木泰徳さん(50歳・福岡拘置所)に対する死刑執行に対し、強く抗議する。

今年日本ではラグビーワールドカップが開催され、世界からの注目度は増している。そんな中での死刑執行は、世界の人々から日本の人権状況を指弾されるだろう。

日本政府は、すでに世界の70%の国と地域が死刑を廃止していることに目を向け、また死刑に誤判が不可避であることを理解し、さらに先の世論調査では、終身刑を導入すれば死刑を廃止してもよいという意見が40%近くに及んでいることを踏まえ、死刑執行を停止して、死刑廃止に向けた議論を開始すべきである。

昨年のオウム事件13名の大量執行の異常さは、EUを始め多くの国から批判された。13名の中には再審請求中の人も多く、そして昨年末の2名の執行も再審請求中の人だった。

今回の執行で、安倍晋三内閣は、第一次で10名、第二、三、四次で38名、合計48名という過去最多の死刑を執行した内閣となった。私たちはこの安倍内閣の残酷さに怒りを禁じえない。

今回の死刑執行がどのような過程を経て決定されているのか、まったく明らかにされていない。どのような基準で、誰がどのように執行される死刑囚を決定しているのか。国家が人の命を奪うという究極的な権力を発動する時に、その過程がまったく明らかにされないのは民主国家としてはあり得ないことだ。しかし、現実にはある日突然「本日死刑確定者何名に対して死刑を執行しました」と、確定判決で認定された「罪状」とともに発表するだけ。再審請求中の人をも執行するという暴挙は、憲法32条の「何人も、裁判所において裁判を受ける権利がある」に対する違反となるにもかかわらず、その執行をする根拠を示すことさえしない。

私たちは、広く社会に向けて、あらためて、このような殺戮の繰り返しや、命を奪うことによっては、なに一つ問題は解決しないこと、そして終身刑等の導入など、死刑を執行しなくてもよい施策を真剣に検討することを呼びかける。

今回処刑された庄子幸一さんは再審請求中だった。庄子幸一さんは、2件の女性殺人事件で死刑判決を受け、2007年11月に死刑が確定した。近年は、被害者への謝罪・償いとして多くの短歌・俳句を詠み、死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金に多数の作品を応募し、その作品は高く評価されている。 

また、国会議員が実施した死刑囚アンケートに答えて、「許して下さい。許して下さい。許して下さい。赦しのない時間の中で、貴女方に語りかけることを私に許して下さい。いつの日かこの獄中に終わる命ですが。(中略)我が悔の想いが届く日まで。魂があると信じて生きている限り私を責め来る声に耳を澄ます。そう命のある限り!」アンケートの最後には次のような歌を記している。

「歪みなき悔ゆる叫びの声透る命を賭して血は流れけり」

鈴木泰徳さんは、2004年に福岡で起こった3女性強盗殺人事件の実行犯として2011年に死刑が確定した。裁判では、殺意はなかったことや心身耗弱状態であったことなどを主張していた。現在は、再審請求も恩赦出願もしていなかったと思われる。

 山下貴司法務大臣が就任して、2度目の死刑執行だが、参議院選挙が終わり昨日国会が始まったばかりだった。二人の事件記録を精査する余裕などあるわけがなく、慎重さを欠く拙速な執行だったと言わざるを得ない。

 私たちは、死刑の廃止を願う多くの人たちとともに、また山下法務大臣に執行された庄司さん、鈴木さんに代わり、そして死刑執行という苦役を課せられた拘置所職員に代わって、山下法務大臣に対し、強く抗議する。

201982

 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90

 

2019年7月 1日 (月)

7月,8月の神山ゼミのお知らせ

神山ゼミを以下の要領で行います。

 

【7月】

日時:7月16日(火)午後6時から午後8時頃まで

場所:伊藤塾東京校202教室

【8月】

日時:8月21日(水)午後6時午後8時頃まで

場所:伊藤塾東京校202教室

https://www.itojuku.co.jp/itojuku/school/tokyo/index.html

【備考】

法曹,修習生,学生に開かれた刑事弁護実務に関するゼミです。 刑事弁護を専門にする神山啓史弁護士を中心に,現在進行形の事件の報告と議論を通して刑事弁護技術やスピリッツを磨いていきます。

特に,実務家の方からの,現在受任している事件の持込相談を歓迎いたします。

方針の相談や,冒頭陳述・弁論案の批評等,弁護活動にお役立ていただければと思います。

なお,進行予定を立てる都合上,受任事件の持込相談がある場合には,参加連絡の際にその旨お伝えください。

参加を希望される方は予めメールにて,下記の事項を松岡孝(matsuokasakuragaoka.gr.jp)までご連絡下さるようお願いします。

※スパム対策として,@を全角にしています。半角の@に変換して送信してください。

 

[件名]7月の神山ゼミ(8月の神山ゼミ)

[内容]

・氏名:

・メールアドレス:

・持込相談の事件がある場合にはその旨

皆様のご参加をお待ちしています。

2019年5月14日 (火)

転載 今井亮一の裁判傍聴バカ一代「右直事故」

今井さんの許可を得て転載します。

 

☆★☆☆★☆☆☆★☆☆☆☆
 
今 井 亮 一 の
 裁 判 傍 聴 バ カ 一 代
(いちだい)
 <典型的な「右直事故」、
   失われなくていい若い命がまた>
 2019年5月11日(土) 第2253号
☆☆☆☆★☆☆☆★☆☆★☆

 前号のオービス裁判が終わって13時48分頃、同じフロアの202号法廷へ入ってみた。
 13時30分~14時30分、刑事第2部(伊藤吾朗裁判官)で「過失運転致死」の審理。 ※東京地裁は刑事第○部だが、さいたま地裁は第○刑事部なのだ。

 被告人は非身柄。中堅の女性弁護人と男性弁護人の間に座っていた。黒のパンツスーツで地味な小顔少女…。
 検察官の後ろに、喪服の年配男性が。被害者の父親だろう、静かな悲しみの底にいる、という感じだ。その隣の中年男性は被害者参加弁護士か。
 傍聴席に喪服の若い男女が2人ずついる。

画像
 ※画像は本件と関係ない。本件の自動二輪の損傷は画像の程度ではなかったはず。

 ちょうど検察官が論告を始めるところだった。

検察官 「最も基本的かつ重要な注意義務を怠り…右折進行する際、対抗直進車の…」

 被告人は普通乗用車を運転して交差点を約15キロの速度で右折、その左側面前部へ直進の自動二輪を衝突させ、25歳男性を外傷性脳損傷などで死亡させたのだという。
 典型的な右直(うちょく)事故だ。

 私は昔、オートバイ乗りだった。
 オートバイは前面の面積が小さいため、対向車からは速度が読みにくく、かつ実際より遠くに見える。そこから起こる右直事故が非常に多い。法的にどっちが悪くても良くても、死傷するのは体がむき出しのオートバイのほうだ。オートバイ乗りの基本は「ケガと弁当は自分持ち」。気をつけろ!
 そのようにあちこちで何度も何度も教わった。
 とくに右折車は信号の変わり目に右折することが多い。黄色信号のとき、普段はアクセルを巻いて(※)突っ切るのだけど、対向車線に右折待ちの車両がいるときは止まろうよ、ということが身についた。 ※オートバイのアクセルは右ハンドルグリップを手前に巻いて開けるようになっている。

検察官 「ドライブレコーダーの…衝突…被告人車両は大きく傾き…」

 なにぃ、普通乗用車を衝撃で大きく傾けるって、被害者の自二はどんだけスピードを出してたんだ?

検察官 「被告人…前科がない…保険により賠償…母親が公判廷で…を約束…そこで求刑です」

 求刑は禁錮10月だった。
 死亡事故で求刑が10月ってかなり低い。「うわ、バイクが高速だったんだね」と私は傍聴ノートに書いた。

 13時53分、被害者の意見陳述を被害者参加弁護士が行なった。
 かつれつよく、良い声ではつらつと、徹底的に被告人を悪く言った。被害者側の速度については一切触れず。なんと空虚な有能さか、申し訳ないけど私はそう思った。

弁護士 「被告人を厳罰に処さなければ同じことをくり返すでしょう」

 なんだと、この野郎! 私はムカついた。
 こんな小娘(被告人)を有罪にして満足するお前らが、右直事故が当たり前に起こる事故であることを結果として隠し、右直事故により進路をそれた車両が歩道で信号待ちをしている“柔らかな命”を奪う事態を、これからも招き続けるのだ!

 続いて弁護人が最終弁論。
 相弁護人の席にいた男性弁護人(もみあげからあごへ黒い髭)が、主任の女性弁護人のさらに裁判官席寄りに立ち、紙を見ることなく述べ始めた。裁判員裁判好きな弁護士なのだね、きっと。
 こんな部分があった。

弁護人 「甲12号証…(被害者の自二は)時速86キロから93キロのスピード…甲2号証…制限速度は40キロ…甲4号証…ドライブレコーダー…衝突の0.7秒後に赤信号になっている…3.3秒前に黄色に変わった」

 


 交通部門の警察官も検察官も持っているこの本によれば、時速90キロで車両は25m進行する。
 被害者の自二がずっと90キロの速度だったとすれば、交差点の82.5m手前で黄色になったのに止まらず、交差点に突っ込んだことになる。
 負傷ですまず死亡に到ったのは、ひとえに被害者自身の速度の出し過ぎじゃないのか。
 しかし、25歳の若い命が失われたのだし、いちおう直進優先のルールがあるので、右折車のほうを処罰しとこう、そういうことと思えた。

 若い頃の私は、オートバイでけっこうかっ飛ばした。「ケガと弁当は自分持ち」と教わっても、他人事と考えていたところがある。

今井  「うわっ、今の瞬間、大事故になって死んでてもおかしくない。助かったのは幸運としか言いようがない。おかげで今後はこのシチュエーションに注意するけれども、不運にも死んでしまう人もいるんだろうなぁ」

 そのようにひりひり思ったことが何度もある。本件の被害者は死んでしまった、そう言えるかも。
 判決期日を決めるに当たり、被害者参加弁護士が言った。

弁護士 「命日が5月26日…それ以降が良いと…」

 裁判官が5月31日を提案すると、検察官が言った。

検察官 「命日から少なくとも1週間以上いただきたいと…」

 判決は6月6日(木)11時30分からB棟301号法廷となった。
 おそらくは昨年の5月26日、25歳の若者が右直事故で亡くなったのだ。なんてこった、合掌。

──────★ 編集後記 ★───────

1、交通事故の多くは交差点及びその付近で起こる。人や車両が交差するのだから当たり前だ。
2、右折車は信号の変わり際に右折することが多い。
3、右折車は、対向直進自二が実際より遠くにいると感じ、かつその速度を見誤りがちだ。
4、直進自二と右折車との右直事故は、自二にとっては典型的な事故パターンである。
5、直進自二は信号の変わり際の交差点へ突っ込むな!
6、どっちが悪くても死傷で大損するのは自二の側だ!
7、速度が高いほど回避しにくく、かつ死傷の程度は大きくなる!

 右直事故はありふれており、自二の運転者が死亡したくらいではまず報道されない。
 報道されても、以上7つの流れにテレビ、新聞が言及することは絶対にない。たぶん、「死傷した側をムチ打つのか!」とクレームが殺到するから。そもそもそんな言及は記者クラブメディアの役割から外れるし。
 かくして、起こりやすい事故が起こり続け、失われなくていい命が失われ続ける、そういう構図が私には見える。

 あなたが自二や四輪を運転するなら、これまで以上に肝に銘じてください。
 自二や四輪を運転する方が周囲においでなら、うるさく教えてあげてください。

 4月末に332部、5月4日に328部だった発行部数は、なんと現在333部! ありがとうございます~!

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2019年4月26日 (金)

5月,6月の神山ゼミのお知らせ

神山ゼミを以下の要領で行います。

 

【5月】

日時:5月21日(火)午後6時から午後8時頃まで

場所:伊藤塾東京校204教室

【6月】

日時:6月17日(月)午後6時30分から午後8時30分頃まで

         ※いつもより30分遅れての開始となります。ご注意ください※

場所:伊藤塾東京校204教室

https://www.itojuku.co.jp/itojuku/school/tokyo/index.html

【備考】

法曹,修習生,学生に開かれた刑事弁護実務に関するゼミです。 刑事弁護を専門にする神山啓史弁護士を中心に,現在進行形の事件の報告と議論を通して刑事弁護技術やスピリッツを磨いていきます。

特に,実務家の方からの,現在受任している事件の持込相談を歓迎いたします。

方針の相談や,冒頭陳述・弁論案の批評等,弁護活動にお役立ていただければと思います。

なお,進行予定を立てる都合上,受任事件の持込相談がある場合には,参加連絡の際にその旨お伝えください。

参加を希望される方は予めメールにて,下記の事項を松岡孝(matsuokasakuragaoka.gr.jp)までご連絡下さるようお願いします。

※スパム対策として,@を全角にしています。半角の@に変換して送信してください。

 

[件名]5月の神山ゼミ(6月の神山ゼミ)

[内容]

・氏名:

・メールアドレス:

・持込相談の事件がある場合にはその旨

皆様のご参加をお待ちしています。

 

2019年3月15日 (金)

無期雇用契約から有期雇用契約への変更や、不更新条項は同意してしまったらそれまでか?

1.無期雇用契約から有期雇用契約への同意の効力が争われた事案が公刊物に掲載されていました(熊本地判平30.2.20労判1193-52 社会福祉法人佳徳会事件)。

  この事件では、無期の正職員としての就業の開始後に、契約期間を2年間と明示している労働条件通知書・確認書に署名・押印したことの効力が争点の一つとなっていました。

2.個別合意による賃金や退職金に関する労働条件の変更に関しては

「当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても…直ちに労働者の同意があったとみるのは相当でなく、…同意の有無については当該行為を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけではなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも判断される」

 との判断枠組みが示されています(最二小判平28.2.19民集70-2-123 山梨県民信用組合事件)

  これは、外形的に同意があったとしても、それが自由な意思に基づいてなされたと認められるだけの合理性が客観的に担保されていなければ、同意の効力が否定される場合があるという意味です。このルールは、専門家の間では「自由意思による同意の法理」と言われることもあります。

3.熊本地裁の判決は、無期労働者と有期労働者との間には

「契約の安定性に大きな相違がある」

ことなどから、有期か無期かは

「賃金及び退職金等と同様に重要な事項であるといえる」と判示しました。

  そのうえで、上記最高裁の枠組みと同様の判断基準に従うことを示し、

「期間の定めのある雇用形態に変更した理由について、…労働者の雇用形態を配慮した変更とは考えられないこと」

「雇用形態を変更することについての不利益を原告に十分行ったと認められないこと」

「本件労働条件通知書に署名・押印しなければ解雇されると思ったためこれに署名したとする原告の供述も合理的であること」

を指摘し、

「原告が本件労働条件通知書に署名した行為は、原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとはいえない。したがって、原告と被告との雇用契約を期間の定めのある雇用契約へと変更することに原告の合意があったとは認められない。」

と判示しました。

  自由意思による同意の法理が適用される場面は限られていますが、熊本地裁の判決は、無期雇用契約から有期雇用契約に変更する場面においても、同法理の適用を認めた点に意義があります。

4.この判例は、他の紛争類型でも活用できる可能性を持っています。

  例えば、以前、このブログで、

 「女性が20年働いた職場を雇止めされたケースでした。大手企業だから早くに対応も始めていて、法改正時の今から5年前、2013年の契約更新時の新しい契約書に『4月以降の通算契約期間は5年を超えないものとする』と今までなかった文言を追加したそうです。会社側は、当然のように『法律が変わって、5年を超えて更新できなくなった』と説明をして、『ここでやめるか、ハンコを押すかの二択だ』と言ったらしいです」

 との事例をもとに、有期雇用の無期転換ルールを批判する社会保険労務士の記事を紹介させて頂いたことがあります。

 https://www.mag2.com/p/news/375000

http://sakuragaokadayori.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-6d73.html

 20年も有期労働契約を反復更新していれば、それは期間の定めのない労働契約と同視できるはずだという議論は十分に成り立つのではないかと思います。

 この場面で不更新条項付きの有期雇用契約書に署名・押印してしまったとしても、今回の熊本地裁の判決を引用すれば、「自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとはいえない」として不更新条項への同意の効力を否定することができるかも知れません。

  今後、同種の判例が積み重ねられるかまでは不分明ですが、熊本地裁の判決により、無期雇用契約(実質的なものも含む)を有期雇用契約に切り替えられ、その後、契約が更新されることなく雇い止めをされてしまったという場合でも、地位の回復を図ることができる可能性が、より開かれることになったのではないかと思います。

 お悩みの方は、ぜひ、一度ご相談にいらしてください。

(弁護士 師子角 允彬)

2019年3月 7日 (木)

ハラスメントに対し、適切な対応を求める権利

1.近時、従業員による知的障害者に対する暴言等と使用者責任の有無等をテーマとする裁判例が公刊物に掲載されました。

  生鮮食品・一般食品・家庭用品・衣料品等を販売するスーパーマーケットのベーカリー部門で働いていた知的障害者の原告が、同僚の従業員から「幼稚園児以下」「馬鹿でもできる。」といった趣旨の暴言を浴びせられていたことなどを理由に当該従業員及び勤務先会社に対して損害賠償を請求した事案です(東京地裁平29.11.30労判1192-67)。

  この事案で、裁判所がハラスメントが起きた場合の事後対応について、目を引く判示をしていました。

  具体的には、

 「事業主は、障害者に限らず被用者が職場において他の従業員等から暴行・暴言を受けている疑いのある状況が存在する場合、雇用契約に基づいて、事実関係を調査し適正に対処をする義務を負うべきであるが、どのように事実関係を調査しどのように対処すべきかは、各企業の置かれている人的、物的設備の現状等により異なり得るから、そのような状況を踏まえて各企業において判断すべきものである。そうすると、企業は、その人的、物的設備の現状等を踏まえた事実関係の調査及び対処を合理的範囲で行う安全配慮義務を負うというべきである。」

 という判示です。

  本件では、

 「店長としては、被告丙川及び他のベーカリー部門の従業員1名に対して事実関係を確認し、原告と他人を比べるような発言をしてはいけない旨注意をしている」こと、

 「被告丙川に注意をした上でそれでも事態が変わらない場合は、原告の配置転換やベーカリー部門の業務を切り分けるなどの対応を検討」していたこと

 などをしたうえ、結論として勤務先会社の事後対応義務違反を否定しています。

  しかし、ハラスメントの疑義に対し、事実関係を調査し、適正に対処する義務の存在を正面から認めたことは画期的だと思います。

2.裁判には立証責任というルールがあります。これは、ある事実が存在するのかしないのかが良く分からない場合、その事実をないものと同じように取り扱ってしまうというルールをいいます。ハラスメントの有無を争点とする裁判では、損害賠償を請求する側がハラスメントの事実を立証しなければならず、水掛け論になって真偽不明という状態に陥れば、ハラスメントはなかったものと同じように扱われます。

  事後対応義務は事実関係の調査義務を含むものです。ハラスメントの被害者としては、こうした義務を根拠に勤務先に調査を求めることにより、ハラスメントを受けたという痕跡を残しやすくなると思われます。また、今後の裁判例の集積をみなければ即断はできませんが、ハラスメントの事実自体が真偽不明で認定できない場合であっても、それが労働者側から申出があった適時の時期に必要な調査が行われていないことに起因する場合、そのこと自体によって一定の慰謝料を請求する根拠になる可能性を含んでいます。

3.セクハラに関しては、男女雇用機会均等法11条2項を受けた平成18年厚生労働省告示第615号「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」(最終改正:平成28年8月2日厚生労働省告示第314号)において、事業主は、

 事案に係る事実関係を迅速かつ正確に確認すること、

 職場におけるセクシュアルハラスメントが生じた事実が確認できた場合には、速やかに被害者に対する配慮のための措置を適正に行うこと、

 などの措置を講じなければならないとされています。

  今回ご紹介した裁判例は、セクハラだけではなく、男女雇用機会均等法11条2項のような明示的な法的根拠のないパワハラの場合においても、適切な事後対応を求める根拠となるものです。

4.「パワハラはセクハラの場合とは異なって、他の部下の面前で叱責する例も多いことから、密室性の程度がより低い場合は多いものの、被害者の立証手段が供述に限られることも多く、結局、好意の存否、態様等にかかる事実認定が困難である場合が多い」(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務,第2版,平30〕278頁)事件類型の一つです。

時の経過とともに、記憶が薄れたり、関わり合いになりたくないという気持ちが大きくなったりして、周辺第三者の供述は得られにくくなることは珍しくありません。被害直後に適切な事後調査が行われるようになることは、企業側に深刻な事態に至る前の段階での適切な対応を促したり、この種の事案における真相の解明を容易にしたりする可能性を持っています。

5.都道府県労働局等が受け付けている総合労働相談窓口コーナーに寄せられる「いじめ・嫌がらせ」に関する相談件数は、平成18年度には2万2153件であったものが平成28年には7万0917件と3倍以上に増え、その後も増加傾向にあります。

https://www.no-pawahara.mhlw.go.jp/foundation/statistics/

 直ちに損害賠償請求訴訟を提起することまでは考えていない場合でも、勤務先への事後対応の申し入れなど、弁護士が関与できる余地はそれなりにあるかと思います。

 お悩みの方は、ぜひ、一度ご相談にいらしてください。

(弁護士 師子角 允彬)

 

2019年3月 4日 (月)

芸能人の方が不当な働き方を強いられていた事件

1.近時、女性歌手の方からの相談を受けました。

  アプリケーションを通じてインターネット配信されている動画番組への出演契約を違約金なしで取り消すことができないかとのことでした。

  契約書を見てみると、

 「報酬金額:番組に関しての金銭報酬は発生しないものとする。」

 「出演依頼者の自由意思による契約であり、出演者は強制的に依頼書提出するものではない旨を確認する。」

 「連絡が取れなくなったり、出演不可となった場合は無催告解除となり直ちに製作費の損害を請求致します。」

 「出演依頼に対するメール・LINEへの返信がない場合(日程含む内容)に関して適時に連絡のない場合、協議の上、製作費の損害を請求致します。」

 「原則24時間以内の返信とします。連絡できない理由がある場合は、速やかに甲(番組制作側 括弧内筆者)への通知を要し、後日証明書類を提示しなければなりません。」

 「番組内で酩酊状態になったとしても、一切の責任は乙(出演者 括弧内筆者)とします。」

 などの文言が並んでいました。

  かみ砕いて言うと、要するに、

タダ働きをしてください、

 ただし、タダ働きを嫌だと言い出せば、番組制作費を払ってもらいます、

 当方からの連絡に対しては24時間以内に返信してください、

 返信がなければ、やはり番組制作費を払ってもらいます、

 番組では酒を飲ませますが、どれだけ酔っても自己責任です、

 あと、この契約は、あくまでも、出演者の自由意思によるという設定になっているので、そこのところ了解しておいてください、

 というものです。

ブラック企業と呼ばれるような会社でも、ここまで無茶な条件を並べて働かせているところは少ないのではないかと思います。

2.自由意思による契約だということを明記している契約書は、街弁をやっていると、それなりに目にすることがあります。消費者被害を生じさせているような会社が挿入していることの多い条項です。弁護士的な発想で言えば、このような条項を入れなければならないこと自体、公正さに欠ける契約であることを自認しているに等しいと思うのですが、問題のある契約を押し付ける側はそうは思わないようです。

  こういう胡散臭い条項から予想されるとおり、番組内容は酷いものだったようです。

  「(芸能界の)先輩やぞ。」などと言いながら飲酒を強要し、性交渉を最初にした時の状況などの性的な質問を執拗に繰り返されたとのことでした。

3.女性歌手の方が、なぜ、このような無茶な契約書を取り交わしたのかと言うと、著名企業が番組のスポンサーをしていて、宣伝になると思ったからです。

  番組はインターネットを通じて生動画で流される形式でした。番組紹介のページに著名企業の名前が掲げられていたほか、契約前に当該企業がスポンサーであると伝えられていました。

  しかし、番組の規模や内容から疑問を持った女性歌手が問い合わせたところ、当該著名企業が問題の番組のスポンサーになっている事実はないことが明らかになりました。

  端的に言ってしまえば、女性歌手の方は騙されていたのです。

4.女性歌手の方は、錯誤に陥らされて契約を結んだものであり、問題の契約は無効であると解されます。実際、スポンサーの件を問い質して交渉したところ、裁判にもならずに番組側は契約が無効であることを認めました。もちろん、違約金を請求されることもありませんでした。

5.芸能関係の方は、フリーランス・個人事業主の立場で仕事をしている人も珍しくありません。

  労働者であれば、労働基準法、労働契約法をはじめとする労働関係の法令によって保護されます。個人事業主の形式をとっていても実質的には労働者と理解されるような働き方をしている方に関しても、労働者性を争うことによって救済を図ることができます。

しかし、名実ともに雇用関係によらず、フリーランス・個人事業主として働く方を守ることは、それほど簡単ではありません。どれだけパワーバランスがとれていなかったとしても、事業者間の契約である以上、基本的には契約自由・自己責任の問題として片付けられてしまうからです。

昨年2月、公正取引委員会が「人材と競争政策に関する検討会」報告書を公表し、フリーランス・個人事業主を保護する方策として独占禁止法が注目されています。

https://www.jftc.go.jp/cprc/conference/index.html

しかし、独占禁止法を使って契約の私法的効力を否定することは、現実問題として考えると、非常にハードルが高いです。本件でも、本当に当該著名企業が番組のスポンサーであったとするならば、契約の効力を否定できたかは微妙なところだと思います。そう考えると、やはり、不当な契約、不合理な契約は結ばないに越したことはありません。

変な契約を結ばないことは、それほど難しいことではありません。一拍置いて弁護士に契約書をチェックしてもらえば良いのです。その場で契約書への署名・押印を迫るような相手とは契約を結ばなければ良いのです。

弁護士は色々な事案に触れて公平な契約がどういうものなのかを知っているため、変な契約は一読すれば分かります。安心して働くため、フリーランスや個人事業主の方こそ、気軽に相談できる弁護士を確保しておくことをお勧めします。

(弁護士 師子角 允彬)

2019年3月 1日 (金)

3月,4月の神山ゼミのお知らせ

神山ゼミを以下の要領で行います。

 

【3月】

日時:3月22日(金)午後6時から午後8時頃まで

場所:伊藤塾東京校203教室

https://www.itojuku.co.jp/itojuku/school/tokyo/index.html

【4月】

日時:4月17日(水)午後6時から午後8時頃まで

場所:伊藤塾東京校204教室

https://www.itojuku.co.jp/itojuku/school/tokyo/index.html

【備考】

法曹,修習生,学生に開かれた刑事弁護実務に関するゼミです。 刑事弁護を専門にする神山啓史弁護士を中心に,現在進行形の事件の報告と議論を通して刑事弁護技術やスピリッツを磨いていきます。

特に,実務家の方からの,現在受任している事件の持込相談を歓迎いたします。

方針の相談や,冒頭陳述・弁論案の批評等,弁護活動にお役立ていただければと思います。

なお,進行予定を立てる都合上,受任事件の持込相談がある場合には,参加連絡の際にその旨お伝えください。

参加を希望される方は予めメールにて,下記の事項を松岡孝(matsuokasakuragaoka.gr.jp)までご連絡下さるようお願いします。

※スパム対策として,@を全角にしています。半角の@に変換して送信してください。

[件名]3月の神山ゼミ(4月の神山ゼミ)

[内容]

・氏名:

・メールアドレス:

・持込相談の事件がある場合にはその旨

皆様のご参加をお待ちしています。

2019年2月21日 (木)

フランチャイズ加盟店のオーナー(コンビニオーナー)の働き方に対する法的保護について

1.セブンイレブンのフランチャイズ加盟店のオーナーが「24時間はもう限界」として営業時間を短縮したことで、本部と対立しているとの記事が掲載されていました。

http://news.livedoor.com/article/detail/16044762/

 記事によると、

「この店舗は人手不足などを理由に、2月1日から午前1~6時の営業をやめ『19時間営業』を開始。本部から『24時間に戻さないと契約を解除する』と通告されている。応じない場合、違約金約1700万円を請求された上、強制解約されてしまうという。」

とのことです。

 加盟店のオーナーである「松本さん」が24時間営業に限界を感じた背景には、妻を亡くし、人手不足が顕著になったことがあるとのことです。

 また、記事では24時間営業を維持するため、

「親の通夜を途中で抜け出し、泣きながら勤務したという人もいる」

とのエピソードも紹介されています。

2.こうした自営業者の法的保護を考えるにあたっては、二つのアプローチ方法があります。

  一つは独占禁止法からのアプローチです。

  独占禁止法というと、一般には、談合や巨大企業による寡占を問題にする法律だというイメージがあります。しかし、力関係に格差のある事業者間の契約を規律するという側面も持っています。

  例えば、優越的地位の濫用という法規制があります。

  独占禁止法は

「事業者は、不公正な取引方法を用いてはならない。」

と規定しています(独占禁止法19条)。

  そして、独占禁止法2条9項5号ハは、

 「自己の取引上の地位が相手方に優越していることを利用して、正常な商慣習に照らして不当に」

 「取引の相手方に不利益となるように取引の条件を設定し、若しくは変更し、又は取引を実施すること」

 を禁止しています。

  加盟店オーナーがフランチャイズ本部から無茶な取引条件を押し付けられている場合、独占禁止法上の優越的地位の濫用に該当するとして救済を求めて行くことが考えられます。

  しかし、コンビニの深夜営業に関しては、既に、

「被告(フランチャイズ本部 括弧内筆者)が本件基本契約等の変更を拒み、本件深夜営業を行うことを原告らに求めることは、正常な商慣習に照らして不当に原告ら(フランチャイズ加盟店 括弧内筆者)に対して不利益を与えるものではなく、独占禁止法2条9項5号ハ所定の『不公正な取引方法(優越的地位の濫用)』に当たるということはできない。」

という判例が出されています(東京地判平23.12.22判タ1377-221参照)。

 記事とは前提にする事実関係が違いますし、現在の社会情勢は当時のものとも相当に異なっています。地裁レベルの裁判例ということもあり、どこまで通用性のあるものかは分かりません。しかし、公刊物に搭載されている東京地裁の判例があることは、決して24時間営業を強いられているコンビニオーナーの救済が容易でないことを物語っています。

3.もう一つ考えられるのは、労働法からのアプローチです。

  コンビニのオーナーに労働者性が認められれば、労働基準法を始めとする各種労働法上の保護が受けられます。

  労働基準法上、

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」(労働基準法16条)

とされているので、記事の事案でも労働者性が認められれば、1700万円といった巨額の損害賠償金を支払わされることは防げそうです。

 都労委平成24年不第96号ファミリーマート事件、岡委平成22年(不)第2号セブン-イレブン・ジャパン事件のように、コンビニのオーナーの労働者性を肯定した命令はないわけではありません。

 しかし、これらは労働組合法上の労働者性を認めた事件でしかありません。

 労働者概念については、「労働組合法の方が、労働基準法・労働契約法よりも広い」という理解が一般的であり(山川隆一ほか編著『労働関係訴訟Ⅰ 最新裁判実務体系7』〔青林書院,初版,平30〕16頁)労働組合法上の労働者といえるからといって、直ちに労働基準法上の労働者として労働基準法の保護を受けられることにはなりません。

 一般論としては、フランチャイズ契約の当事者となっている加盟店オーナーを労働者とみるのは、それほど簡単なことではないだろうとは思います。

4.フランチャイズの本部と加盟店の関係もそうですが、力関係に相当な格差があっても、事業者間の契約となると、内容に偏りがあっても、契約自由・自由競争とはそういうものだという理解のもと、裁判所はそのままの内容で契約の有効性を承認することが多いように思われます。

  しかし、働き方が多様化して、労働者とフリーランス・個人事業主との境目が曖昧な就労形態も生じてきている現状を考えると、本当にそれでいいのかと思います。

  望ましいのは事業者間での契約の公平性を担保するための何等かの立法措置だとは思います。

  しかし、それが困難である間は、公平性に欠ける取引条件を押し付けられている個人事業主の法的利益を保護するためには、独占禁止法や労働法を用いた解釈論によるアプローチをとってゆくしかないのだろうと思います。

  勝てる・何とかなると軽々に言える事件類型でないことは確かですが、お悩みの方は、一度相談にいらしてください。

(弁護士 師子角 允彬)

 

2019年2月10日 (日)

固定残業代の有効性が否定された例

1.固定残業代とは、残業代(割増賃金)を予め基本給に組み込んだり、定額の手当として残業代を支払ったりする仕組みをいいます。

  固定残業代が有効であるためには、

通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要…(最高裁平成3年(オ)第63号同6年6月13日第二小法廷判決・裁判集民事172号673頁,最高裁平成21年(受)第1186号同24年3月8日第一小法廷判決・裁判集民事240号121頁,最高裁平成27年(受)第1998号同29年2月28日第三小法廷判決・裁判所時報1671号5頁参照)」

とされています。

また、固定残業代を導入したとしても、使用者は、

「割増賃金に当たる部分の金額が労働基準法37条等に定められた方法により算定した割増賃金の額を下回るときは,・・・その差額を労働者に支払う義務」を負います(以上、最二小判平29.7.7労判1168-49等参照)。

2.使用者には「労働時間を適切に管理する責務」があります(平成13.4.6基発第399号「労働時間の適正な把握のため使用者が講ずべき措置に関する基準」参照)。この義務は固定残業代を導入したところで免れることはできません。そのことは、上記基準が、

① 「本基準の対象事業場は、労働基準法のうち労働時間に係る規定の全部又は一部が適用される全ての事業場とする」と明記していること

 ② 「時間外労働手当の定額払等労働時間に係る事業場の措置が、労働者の労働時間の適正な申告を阻害する要因となっていないかについて確認」を求めていること

 からも明らかです。

このことは、固定残業代を導入することが、企業側から見て経済合理性がないことを意味します。

  個々の労働時間を把握する責務から解放されるわけではありませんし、定額残業代を上回る時間外勤務手当が発生していないかを確認するため法所定の方式に従って時間外勤務手当を計算する作業を免れるわけでもないからです。

  そして、実際の時間外勤務手当が定額残業代を下回っている場合には本来払わないで良い残業代を支払うことになりますし、実際の時間外勤務手当が定額残業代を上回っている場合にはその差額を労働者に支払わなければなりません。

  法の趣旨をきちんと順守すれば、理論上、定額残業代を導入した場合の企業の人件費総額は、導入以前よりも常に高くなることになります。

3.ところが、現実には、固定残業代を導入している・導入したがっている企業は相当数に及びます。

  このことは法の趣旨を曲解した適法性に疑義のある運用がなされている例が蔓延しているからではないかと思います。実際、固定残業代の適否を巡る紛争は頻発していて、しばしば判例集にも掲載されています。

  近時、判例集に掲載された東京高裁平30.10.4労判1190-5イクヌーザ事件もその一つです。

  この事案では、月80時間分の固定残業代を基本給に組み込んでいたことの有効性が問題になりました。この事案では基本給23万円のうち、8万8000円が月間80時間の時間外勤務に対する割増賃金とする旨が記載された雇用契約書が取り交わされていました。

  裁判所は、脳血管疾患及び虚血性心疾患等の労災認定基準に言及したうえ、

 「1か月当たり80時間程度の時間外労働が継続することは,脳血管疾患及び虚血性心疾患等の疾病を労働者に発症させる恐れがあるものというべきであり,このような長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定して,基本給のうちの一定額をその対価として定めることは,労働者の健康を損なう危険のあるものであって,大きな問題があるといわざるを得ない。そうすると,実際には,長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定していたわけではないことを示す特段の事情が認められる場合はさておき,通常は,基本給のうちの一定額を月間80時間分相当の時間外労働に対する割増賃金とすることは,公序良俗に違反するものとして無効とすることが相当である。」

 との規範を示し、

 「本件固定残業代の定めは,労働者の健康を損なう危険のあるものであり,公序良俗に違反するものとして無効とすることが相当」

 であると判示しました。

  その後、裁判所は基本給の全部を時間外、深夜割増賃金算定の基礎となる賃金額としたうえで時間外勤務手当の額を計算し、使用者側に200万円を超える時間外・深夜割増賃金額と100万円を超える付加金の支払いを命じる判決を言い渡しました。

4.最初に述べたとおり、法の趣旨に従って運用する限り、固定残業代は本来経済合理性に乏しい仕組みです。求人広告で基本給を高く見せかけるだとか、過大な時間数を設定して定額働かせ放題の仕組みとして運用するだとか、法が想定していないような趣旨で導入されている例は、相当数眠っているのではないかと思います。

  固定残業代の名のもとに不当な扱いを受けているのではないかとお感じの方がおられましたら、ぜひ、一度ご相談においでください。その疑問には十分な理由がある可能性があります。

(弁護士 師子角 允彬)

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